小説くずれの山

小説崩れを置いておく場所。思いつきで書いているので、ほんの少しのテーマ箱みたいなものです。よければコメントください。

アインシュタインの給仕

「退屈な人生だ」

就職の日が近づいてきたある日、男は改めて呟いた。平凡よりも更に少しだけ穏やかな学生生活をおくってきた彼は、もう間もなく何の変哲もない会社に就いて、語ることもないような在り来りな人生をおくって、よくあるホールのよくある棚で念仏を聞いて、有象無象の墓石の下で眠るのだろう。

本当に、"特に何も無い"とは自分のためにあるような言葉だ。

男はそんなふうに考えていた。

彼はアルバイトから帰ると、いつも通りスマートフォンを開いた。動画投稿サイトを利用するのが日課なのだ。好きなクリエイターの動画や生配信をぼんやりと眺めて、眠くなったら寝る。それが日常だった。

6.1インチの液晶画面の中では、素人の中から偶然見つけられた若者たち――彼とそう歳も変わらないような才能の芽たちが、持ち込んだ企画を仲間たちと盛り上げていた。コメント欄では視聴者が絶えず感想や評価を発信し、その流れは彼が目で負い切るには少し速すぎるくらいだった。その中には彼の言葉もある。

「見つけられなければ、何も出来ない世の中だ」

インターネットが当たり前に使える時代がやってきて、絵や文章や音楽、そしてその他のエンターテインメントは「誰もが気軽に発信できる」し「誰もが気軽に受信できる」世の中になったと言われている。この言葉に間違いは無いだろう。

だけれど。

「見つけてもらうには、見つけられた実績が要るんだ」

少なくとも彼の場合、彼が長い学生生活の半分の期間に暮らしの傍らで書き連ねていた文章の多くは、インターネット上の無数の言葉の中に飲み込まれ、数え切れる程度の数だけ誰かの視界の片隅に触れてどこかへ消えていった。

結局のところ、何かひとつでも「見つけられ」て、「目をつけられる」ことを経験しなければ、なかなか評価は得られないし、活動の第一段階である「見てもらう」ことすら叶わないで消えていくのだ。このインターネットの世界には、そうやって誰の目にも触れなかった傑作が、文字通り腐るほどあるのだ。「――何を言ったかより、誰が言ったかだ」そんな残酷で確実な台詞を、なにかの漫画で読んだ気がする。

時代が移ろっても、超えなければならないハードルの高さの合計はきっと変わっていないのだ。「発信と受信」が簡単な時代では「勝たなければならない同志の数」か増える。逆にそれが難しければ「同志」は減る。両者は反比例の仲なのだ。

だからこそ、この液晶画面越しに幾千幾万もの人々に笑顔を提供できるこの人たちは、選ばれし者なのだろう。

「そういえば、昔はこの世界に憧れたこともあったっけな」

誰もが一度は、スポーツ選手や、役者や、創作活動家に憧れる。その多くは無邪気に「将来はあれになりたいんだ!」と語っては後年に「そんな不安定で大変な業種はやめなさい」と誰かに言われ、その通りにしてしまう。彼も昔は、「小説家になりたい!」と語っていた時期があったものだ。

「この人たちは……きっとそれに折れない強い人だったんだな」

番組が終わり、「おつかれさま!」で賑わうコメント欄を見送った彼は、画面をSNSに変える。これも日課のひとつみたいなものだ。

特に何をつぶやくわけでもなく、タイムラインをスクロールし、目に止まった呟きを斜め読みする。

「……違う」

彼の目にとある呟きが映った。読んだ彼は思わずそう独り言ちた。

「違った……そうじゃない」

震え声で、彼は続ける。

「あの人たちは、ただ強い人だったわけじゃないんだ……むしろ、弱いのは俺たちのほうじゃないか……」

独り言のクセなんて彼には無い。そんな彼が、誰もいないアパートの一室で長々とそんなふうに振る舞うくらいの衝撃だったのだ。

「そうだ……俺が小説家を諦めたのは……生きてきた中で出会ってきたあの大多数の大人たちが『やめろ』と言ったからだ!『無理だ』と断定したからだ!でも……彼らに根拠なんてなかったんだ……」

夢を追うことを、最初からやめたくてやめる人間なんてそう居やしない。もちろん、どこかで現実を知って逃げ出したくなることはあっても、それすら外的な恐怖への対応であって、自発的にやめたがった訳ではないのだ。

「違う……人生が退屈なんじゃない!俺の築いてきた『常識』が退屈なんだ!」

気付けば彼は、動画クリエイター事務所のエントリーフォームのリンクをタップしていた。

自分の文章を、あの人たちと同じ世界で、今度こそ輝かせてみよう。

彼は明朝、この夜の選択に対して純粋に夢想を重ねる楽観的で理想家な自分と、くどくどとバカにした説教を繰り返す悲観的で現実家な自分との矛盾に悩まされることになる。

――きっと後者こそが、この四半世紀に自分が喰らってきた「大人の常識」なのだ。

言葉は食べ物だ。人が生きていく中で、幾つものそれを大人たちから与えられて、子どもはそれを無邪気に喰らうしかないのだ。そうして体内に蓄えられた言葉たちは、否応なくその者の思考や言動、そして生涯を肉体のように縛り付けるのだ。

彼のエントリーに対する合否が出るまでにはまだ時間がかかるが、彼はその悩みすら幸福に思えるくらいには、刺激と意欲を得ることには成功したようだ。

 

 

 

迷言BOT @meigen_bot

20XX.10.28  23:26

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」――アルベルト・アインシュタイン

          返信        RT        いいね         共有

確実な過去をなぞる

少し、昔話をしよう。

 


……?

目を覚ますと、重要な記憶ばかりがひどく曖昧になっていた。自分の名前、現在地、今の時間。

辺りは暗い。暗闇の奥に一筋だけ光が差し込んでいる。扉の隙間だろうか。ここは何かの部屋の中のようだが、心当たりは無い。勿論、自分の名前すら覚えていないのだから、自室がどのような間取りだったかも覚えていないけれど、それでも何となく「居慣れた自室」ではないことは感覚で分かった。

いやに蒸し暑くて、シャツが汗でベタつく感覚がひどく不愉快だった。

漠然と、自分がだいたい10代後半で、男性であることは覚えていた。

「ここは……どこだ? いやそれよりも、僕は……誰だっけ……?」

フィクションの世界でしか聞いたことがないような、頼りない在り来りなセリフが思わず口をついて出る。

暗闇に少し目が慣れてきて、もう一度辺りを見回してみた。やはり見覚えのない――少なくとも、今覚えていることの中に答えは無い部屋だった。

程なくして、足元も辛うじて見えるようになり、僕は先程見えた扉と思しき隙間に近づく。手探りでドアノブを見つけ、捻ってみる。鍵は掛かっていないらしく、ちょっとの力で扉は開いた。

扉を開けると目の前に広がっているのは平凡な丘の風景で、足元の青々とした芝生と、やかましい蝉の声と、降り注ぐきつい日差しが、どうやら今が夏であることを物語っていた。どうやら今居た部屋は窓がないプレハブ小屋だったらしい。

丘を下った先の炎天下に、やっぱり在り来りで、なんのノスタルジーも催さない街並みが見えた。

唐突に眼球を刺激した日光に眉をひそめながら、ジーンズのポケットを漁ってみる。特に意図せずしてとった行動だった。今にして思えば、いつものクセでスマートフォンを取り出そうとしていたのかもしれない。

ポケットの中には財布も鍵も何も入っていなかった。当然、スマートフォンや身分証明書の類も見つからない。いよいよもって、自分が何者なのか、ここがどこなのかを判断する材料が無い。

嫌な汗を手の甲で払いつつ、自分の身に何が起こったのかを推理する。

真っ先に思いついた可能性は「誘拐や拉致といった犯罪に巻き込まれた」だったが、だとしたら鍵も掛けずに放置したりはしないだろう。直ぐに否定できた。

次に思いついたのは、「僕が自分の意思であの部屋にやってきて、なんらかの事故――暑さや酸欠で倒れてしまい、一時的に記憶が上手く掘り起こせていない」というものだった。しかし、これもおかしい。熱中症や酸欠が原因なら、汗まみれとはいえ今まさに身体が動いているのは不自然だし、自分の意思でやって来たのだとしたら、荷物どころか財布も何も持っていないのはあまりにも奇妙だ。

だが、どんな理由があるにせよ、現状で何も思い出せないのは事実で、それは紛れもなく健忘症の類であろう。

ひとまず風景の先に見えるあの街に出て、公共施設に頼ることにするのが最善策といっていいだろう。

僕は街へ向かって歩み始めた。

汗でベタつく顔を洗いたかったし、流石に喉も乾いていたので、道中にあった水飲み場に立ち寄った。火照った身体に冷たい水が心地よい。そこまで誰ともすれ違わなかったが、丘を少し登った所なので誰も来ていないのだろうと思い、特に不審には感じなかった。もしかしたら平日の昼間なのかもしれない。果たして僕が学生だったら、無断欠席になってしまうだろう。そんな他愛もないことを考えつつ、丘を下った。

丘を下りきる頃にはまた汗が吹き出していて、どこかで冷たい炭酸水でも買って飲みたいくらいだった。特に深く考えたわけでもなく、なんとなくで「炭酸飲料」ではなく「炭酸水」を欲したあたり、もともと炭酸水が好きだったのだろう。思い出すこととはまた違うが

、ひとつだけ自分のことが分かって安心したのは確かだった。無事に街並みにたどり着いて、ちょうどコンビニエンスストアが目に止まった。残念ながら財布は持ち合わせていないから買うことは出来ないが、少し涼んでいこう。

 


……何かがおかしい。

涼みに立ち寄ったコンビニエンスストアで、はしたないのは承知で冷房に便乗していると、店員とすれ違った。学生のアルバイトであろうパーマの効いた茶髪の彼は、すれ違いざまに持っていた商品箱を私の腕にぶつけ、妙な表情でこちらを振り返った後、何事も無かったかのように通り過ぎていった。目も合わせない。

故意ではないのだろうが、マニュアルが行き届いていることに定評のあるコンビニバイト店員が、こういう場合にこんなふうに愛想も礼儀もない対応をするのは如何なものだろうか。

何も買わないのに涼むだけ涼んで出ていこうとして、万引きか何かだと間違われるのも嫌だったので、トイレを借りることにした。トイレのドアには「ご利用の際は店員に一言お声かけ頂きますよう、お願い致します。」と貼り紙があったので、レジで何かを数えている店員に向かって「御手洗借りますね」と声をかけた。しかし、店員はウンともスンとも言わない。こちらを見て頷きもしない。再度声をかけてみたが、反応は変わらず無い。

この店舗は店員の教育が特別行き届いていないのだろうか。流石に不愉快に思いつつトイレをさっさと借りて、私はその店舗を後にすることにした。

まるで、"僕のことを認識できていないかのような"対応だった。

一抹の不安が脊髄を撫でた。それに駆り立てられるかのように、街を早足で歩き回った。途中何度も誰かとぶつかった。ぶつかった誰もが、こちらを振り返っては何事もないことを確認して奇妙な表情で通り過ぎてゆく。危うく走っている子どもたちを何度か蹴飛ばしそうになった。子どもたちは何の脅威も驚異も見出さず走り去っていく。涼んだばかりだと言うのに、汗は変わらず吹き出し続けている。なんならさっきまでより不愉快なくらいだ。

どうなっているんだ。

この街の人間は、僕の存在を、声を、認識していない。

 


……理解できない。

認識されていないだけで、存在そのものは確かに「在る」ようだ。僕の視界では鏡にも映っているし、誰かとぶつかったり、先程のように蛇口を捻ったりはできる。ただ、道端の石ころになったように、誰かの感情の対象になったり、意思疎通を図ったりは出来ない。声や身振り手振りを知覚して貰えないのだ。

「ここはどこ、わたしはだれ」どころではない。フィクションの中でしか有り得ないようなことが現在進行形で起こっているのだ。事態を把握すればするほど不快な汗が首筋を湿らせた。空気は暑いのに内蔵がひんやりとする感覚さえ鬱陶しい。

把握はできても理解はできないことというのは得てして在るものだ。しかしその全ては、受験勉強の中で自分の頭では暗記でしか対処出来ない単元のように、人を歯痒い思いで煩わせるものだ。

暑さと混乱で頭も回らなくなってきた。どうせ存在も認識されていないのだ。僕は先程とは別のコンビニを見つけ、ミネラルウォーターを拝借し、少し飲んで残りを頭から被った。緊急回避ということで大目に見てもらおう。そうしてコンビニの前に座り込んでしまった。シャツもジーンズも、台風の中を歩いてきたかのようにびしょ濡れで、とても公共の場に居ていい格好ではなかったが、もはや認識されなのだからどうでもよかった。

少し落ち着いて、髪の先から地面へと滴り落ちるミネラルウォーターをぼんやりと眺めながら、どうしたものかと思索する。

ふと、物は触れるから、例えばペンをどうにかして手に入れれば、文字を書いて誰かと意思疎通を図れるかもしれないと思い至った。

早速、濡れたままコンビニにもう一度入り、棚の中で一番安い筆記具を拝借して、店内で一番質素な貼り紙を選んで事の経緯と「誰か返事をくれ」といった旨を書き込んでみた。

しばらくして店員がその書き込みを見つけると、舌打ち混じりにこんなことをボヤいた。

「誰だよこんなとこにインク染み付けたやつ……ちっ……擦っても消えねえじゃねえか」

どうやら"僕が発信した言葉も認識されない"らしい。か細い望みは容赦なく断ち切られた。

存在が認識できず、スマートフォンも持っていない。だからインターネットや警察を縋ることは出来ないということになる。何らかの方法で文字や言葉を発信しても、それも認識されない。あらゆる意思疎通は遮断されており、ただ「認識されない存在」としてのみ在る。

どうしようも、ないじゃないか。

いよいよもって八方塞がりだ。

最早打つ手を失って、どうすることも出来ずにとぼとぼと歩き始めた。相変わらず袖口から滴っているミネラルウォーターが、アスファルトに惨めなシミを作った。

気付けばもう日は傾いていて、学校帰りの高校生がケタケタ笑いながら道を行くのが見える。それでも彼らに自分は見えていない。

可愛らしい印象を受ける背のまるまった老夫婦が何かを囁き合いながらスーパーマーケットから出てきた。今夜の献立の話だろうか。彼らはお互いと言葉を交わせても、僕と言葉を交わせるものはいない。

当てもなくさまよって、気付けば静かな公園の隅にいた。子どもたちはもう家に帰ったのだろう。置いていかれたサッカーボールだけが風に転がされている。どこかからカタンカタンと電車が線路を走る音が聞こえている。物寂しい空間が広がっていた。

どのくらいさまよっていたのだろう。また喉が渇いていた。目に止まった水飲み場の蛇口を捻った。思えば、あの小屋を抜け出して最初に触れたものもこれも同じ形の蛇口だった。あの時はまだ、こんなに絶望的な未来を予想だにしていなかった。

「こんな……こんなの、どうしろっていうんだよ」

最早誰にも聞こえない僕の声は、こぼれた水なのか落ちた涙なのか分からない液体と共に、排水口に流れていく。きっとこのまま下水と共に、誰の目にも触れずにどこかへ行ってしまうのだろう。

……あの小屋に戻れば、何かわかるだろうか。

どうしようもなくなって、初心に戻るというほど積極的なものではないが、一旦あの場所に戻ってみようかと思い立った。

何か見落とした手掛かりがあるかもしれない。いずれにしても、今ここでできるような手段はもう残っていない。

「行こう」

言い聞かせるようにそう言って立ち上がった。

後ろから声が聞こえた。

「よう。やっと、戻る気になったか?」

 


……どうして。

声のほうへとほとんど無意識に振り向く。

声の主は、ボロいジーンズと季節に似合わない真っ黒なパーカー姿で、フードを目深に被っていた。しかしその言葉は間違いなく僕自身に向けられていた。その場に他に人はいないのだ。

普通だったら、不審な男に声をかけられたら応じる必要は無い。しかし今は普通ではなかった。

"認識されないはずの僕に声をかけてきた者がいる。"

異常に異常が掛け合わさった産物として、歪に平常な出来事が起こっている。

僕が、見えるのか?

「『見えるのか』って?そりゃあ見えるさ。この距離だぜ?見えないほうがおかしいだろう?」

見透かしたように男が答えた。思わず声に出してしまったのだろうか。

「ああ、安心しろよ。声には出てない。俺が勝手に知っていただけだ」

まただ。この男は、考えていることを見透かしている。

「見透かしているっていうのとは少し違うがね。まあ似たようなもんだ。大事なのは結論、結末だ」

三度男が勝手に答えた。誰なんだこの男は。案の定言葉にする前に男は話し始めた。

「俺が誰かなんてどうでもいいだろう?君が知りたいのはそんなことじゃない。自分の状況とその原因だ。そうだろう?」

やっとの思いで僕が答える。

「なんなんですか……なんで全部見透かしているんですか」

「おいおい、『質問に質問で返すな』っていつだったかマンガで読まなかったか?……まあいい、その質問に答えるのであれば、『知っていた』というだけのことさ」

何を言っているのか分からない。なんなんだこの男は。不審は不信を呼ぶ。

「ま、お前が俺のことを不審がろうが信じなかろうが、お前は唯一意思疎通ができる俺と話さざるを得ないんだがな」

次々と思考を見透かして、男はとうとうと話し続ける。

――逃げなければならない!

本能がそう叫んだ気がした。考えてはいけない!この男の声に耳を傾けることは最善策じゃない!早くあの場所へ向かうんだ!と。

「お前さあ、いくらなんでも水盗んだりペン盗って落書きしたりはダメだろう?良くないぜ。メンタル鍛えなきゃな」

偉そうに語り続ける男の言葉は、もう僕には聞こえていなかった。

僕は、あの小屋を目指して駆け出していた。

「それでいい」

男は自嘲気味にそう呟いていた。

公園に取り残された男は、教壇に立つベテランの教授のように大袈裟に、それでいて諭すように、空に向かって独り言ちる。

「お前は、それでいい。どんなに追い込まれていても、悪は悪だ。孤独はお前だけじゃない。あの学生たちも、あの老夫婦も、本質的には孤独だ。独りと独りが合わさっても『ふたり』に応る字は無いんだ。言い訳がましい『緊急回避』も、誰もが目を背ける『孤独の集積』も、お前はこの一晩で知ることが出来た!これでいいんだ!俺の役目は、お前にそれを見せつけることだ!見せつけられたお前が、『次の俺』を生み出す!お前は本能に負けて逃げたんじゃない!受け入れて立ち向かう覚悟を決めたのだ!その覚悟が開く、正しき道を目指すべく駆け出したのだ!そうやって俺は!お前は!この夜を繰り返すのだ!この夜が来る度に悩むのだ!」

男の叫びは空に吸い込まれていく。公園の前を通り過ぎていく人々には、当然のごとく男の声なんて聞こえていない。

 


……もう疲れた。

あたりは既に暗くなっている。知っていた道でも、来た道を覚えていたわけでもないのに、気づけばあの丘を駆け上っていた。昼間に立ち寄ったあのコンビニを通り過ぎたかどうかすら覚えていない。ただ走らなければならないという義務感で、あの小屋を目指していた。

ようやく小屋にたどり着く。目覚めた時に手探りで捻ったものと同じ形のドアノブを、勢いよく捻って扉を叩き開ける。

もはや自然光すらロクに無い時間だ。室内は昼間以上に真っ暗で、手がかりなんて探す余裕は無い。

「もう……勘弁してくれよ」

僕の呟きが暗がりに呑まれていくのと並行して、意識が遠のいていった。

 


次に目を覚ますと、やはりそこは暗い部屋だった。しかし何かが光っていた。デジタル時計の液晶画面だ。02:18を示している。よく見れば今度は窓もあるし、その向こうには細い月が見えた。寝違えたように少し足が痛い。疲労感と汗が首筋にまとわりついている。

自分の名前も、自分が18歳であることも、ここが自宅の自室であることもすべて覚えていた。

何か、長い夢を見ていたような気がした。

 


……15年後。

目が覚めると俺は暗い部屋にいた。窓のない部屋のようだ。扉と思われるところから光が漏れていた。

――ここは……そうだあの時の。

そこで、全部思い出した。

18歳の夏にみたあの長い夢の内容も、これが夢であることも。

よく辺りを見ると、部屋の対角側に20歳にも満たないくらいの少年が寝ていた。見覚えのある冴えない顔だ。思わず笑ってしまう。

この少年をこの夢から覚ます方法を、永くくり返される夜に悩ませる方法を、その悩みの数だけ彼を大人にしていく方法を、俺は知っているのだ。

俺は部屋を出て、少年が部屋を出るのを待った。

少年は部屋を出ると丘を下り、道中で水飲み場に寄り、そしてコンビニに入った。暫くして、びしょ濡れの格好で焦燥の浮かぶ表情をたたえた彼はあの寂しい公園にやってくる。

ーー本当、こんな役回りおれだってやりたくないけれどさ、お前も不快だろうけれど、過去ほど確かなものもないんだ。お前はこれから、夜を繰り返して悩み抜け。それに、俺の汚点は僕が指摘しなきゃいけないんだ。

俺は、十五年前の、確実な過去をなぞる。真っ直ぐと少年の目を見ることは出来なかったが、それでもあの時のあの俺と同じ、嫌味で大袈裟動作をなぞりながら。

「よう。やっと、戻る気になったか?」

まったく。夏は嫌いだ。

公園の真ん中では、サッカーボールが風に転がされていた。もはや聞こえるのは電車の音だけだ。

リスキーゲーム

何かに決着をつけるということは、得てしてリスキーなものなのだろう。勝つためには負けるリスクを負わなくてはならない。

例えばそれは、歴史のワンシーンで。

何百年前かは知らないが、親の仇を討つために剣に生涯を捧げた彼がいた。彼はいよいよ仇との真剣勝負に至ったが、結果として敗北した。仇はあまりにも強く、今では教科書の隅っこに名前を載せている。

例えばそれは、青春のワンシーンで。

走ることに青春を捧げた彼女がいた。彼女は、プロへの入口として全力を注いだあの試合で、脚がもつれて転倒してしまった。きっと熱意が空回りしてしまったのだろう。その際の負傷は、生活には支障をきたさないものの、彼女に陸上を続けることを許さなかった。

例えばそれは、生命のワンシーンで。

病室の窓から見える桜が大好きな、肌が白いあの少女も同じだ。華々しい「桜」が青々とした「木」に姿を変える頃、あの子は病との最後の闘いに臨んだ。その両親がありとあらゆる犠牲を払って勝ち取ったその手術は、ウィキペディアに載っている通りの確率に従って失敗した。

みんな決着をつけようとして、ひたむきに勝ちを願って、それでも敗北の可能性は残酷に彼らに微笑んだのだ。誰だって、何だって、決着を望む者には敗れるリスクを負わせるというのが、この世界の道理なのだ。

そしてどうやら、それは恋愛というものにおいても例外ではないらしい。

紫陽花がそのシーズンで初めての色を見せたあの日、純情な彼は片想いに決着をつけた。

誠実な言葉を精一杯に紡いで、震える声を握った拳の痛みで抑え込んで、必死に伝えた。

審判を務めるのは長い黒髪が美しい部活の先輩だ。困ったように少し微笑んだ彼女は、彼に判定を下す。

「ごめんね」

どうやら彼の春も終わり、夏が訪れるようだ。もうじき蝉がやかましく鳴き喚くのだろう。

桜の樹の下

「僕に限った話じゃないさ」

声にならない言葉で、僕は呟く。

「どんなかたちであれ、最後はだれだってきっとそうなるんだから」

目の前では、イマドキと形容するにふさわしいファッションの少女が、桜の樹を不思議そうな瞳で見上げている。歳は十代後半だろう。若さに充ちた綺麗な目だ。

 


今から70年と少し前の11月、この土地には炎の雨が降った。

僕は恋人を連れて、触れずとも熱を感じさせて降りそそぐ「雨水」を避けながら走った。

たしか、あの階段を登ったところにある神社に、防空壕があったはずだ。そこに逃げ込もう。

そう、思っていた。

タイミングが悪く準備に時間をとられてしまい、僕たちの避難は大幅に遅れていた。周りには人は見当たらない。もう避難したのだろうか。そうであって欲しい。

まとわりつく汗と熱気が焦燥を際立たせる。焦ったときのクセで、僕は目元の黒子を掻いていた。

体力のない彼女の手を引いて登る階段は、いつ出兵になってもいいように普段から鍛えていた僕でも、なかなか辛いものがあった。

やっとのことで階段を登りきるや否や、僕たちはその場で膝をついた。それはなにも階段で疲れたからではなかった。

防空壕が、壊れていた。

「雨水」の一滴が、壕のすぐそばに直撃したらしい。入口がすっかり瓦礫で埋もれた防空壕の傍らで、枝が半分ほど焼け焦げた桜の樹だけが辛うじて生命を感じさせていた。

壕の中の人たちは無事だろうか。無事だとして、助けが来るまでに、密閉された暗い空間で、その中の何人が生きて帰れるだろうか。

「とにかく……どこかに身を隠さないと」

焦りから早口になる僕の言葉に応じて、彼女は神社の社の下に潜る。木造建築がどこまであの「雨水」に耐えられるかはわからないけれど、ほかに避難できそうな場所は思いつかなかった。

「瓦礫をどかせないか、試してくる」

僕はそう言って、袖を掴んで首を振る彼女を社の下に残し、崩れた防空壕の瓦礫をどかし始めた。あの時の彼女の、炎を反射しながらしっとりと湿った瞳を忘れることはない。

危険は百も承知だった。それでもやはり、木造建築で火の雨を防ぐのは心許ないし、何より防空壕の中の人たちが気がかりだった。非常時の焦りでじっとしていられなかったのも確かだ。

瓦礫をどかし始めてまもなくだった。ちょうど僕が瓦礫に手を伸ばした所に、「雨水」が降った。

 


70年の時が経って、僕はまだ、かつてあの防空壕だった場所に縛られたままだ。

「帰るかね」

90にはなっていそうな老婆が、しわがれた声と曖昧な滑舌で、歪な枝の生え方をした桜の樹を眺め飽きた少女に声をかけた。歳のわりに、まだずいぶん元気そうだ。

「おばあちゃん、よくここに来たがるけど、どうして?」

少女は老婆に問いかける。

「お前があと少し大きくなったら、話してやろう」

「私もう18よ? もう背なんか伸びないわよ」

不満そうな少女の反応を余所に、老婆は適当にはぐらかす。きっと彼女は、それを語る前にこの世を去るだろう。

少女の顔には、老婆の若い頃の、社の下で奇跡的に生き残った彼女の面影が、たしかに残っている。しっとりと潤った目には明るい気持ちがよく現れている。こうやって見ると、目元の黒子も案外かわいらしくて、まだまだ将来が楽しみな子だ。

祖母と歩く少女はとても楽しそうで、そこにはたしかに幸せが見える。

あのタイミングの悪さのせいで僕は不幸に遭った。けれど、その不幸は、違うかたちでいつか必ず訪れたものでもある。そして、もしかしたらあのタイミングの悪さがなければ、この少女の幸せはもう少しズレたものになっていたのかもしれない。

 


桜の樹の下には死体が埋まっている、という言葉があるらしい。

だれだってきっとそうだ。桜の花を愛でるとき、ひとは足元の花弁を踏みつけている。幸せに触れるとき、その背景には無数の不幸が潜んでいる。でもそれは、決して間違ったことではないはずだ。

過去を受け入れて、同じ不幸をできるだけ繰り返さずに、未来を愛でられるから幸せなんだ。

僕はもう少しだけ、桜の樹の下で、あの少女と最愛の老婆のささやかな幸せを見届け続けよう。

 

間抜けの世界

カチ、カチ、カチ。秒針の音だけが聞こえる部屋で、熱すぎたコーヒーを冷ましている。

あの日以来凝りが酷い肩を揉みながらため息をついた。

あれからもう少しで1年が経つ。随分と時間が流れたものだ。その間、自分の身に、あるいは心に、何か明確な変化があったかといえばそんなことは無いような気はする。かといって全く変わらなかったかといえば、そんなことも無いとは思う。

生まれて初めて自分で選んで、自分を受け入れてもらうために努力をして、それでやっと手に入れた「世界」を、自らの手でズタズタに破壊してしまった。

似たようなこと――友人や知人との決別は、何も初めてではない。今までだって何度もあった。それでも1年前のそれは格が違ったようだ。

新しい環境に身を置くにあたって、きっと消極的な自分はその「世界」のようなものを得ることは出来ないだろうと、元々は酷く悲観していたし、半ば諦めていた。そんな自分が、運良く、そして困惑と挑戦を経てようやく手に入れたあの「世界」なのだ。

控えめな装飾を施した綺麗な小箱に収めて、引き出しの奥に大切に仕舞っておかなくてはならないような、そんな大切な「世界」を、あろうことか、その価値を最も知っているはずの自分が壊したのだ。

あの人は今どこで何をしているのだろうか。どんな「世界」を築いているのだろうか。アイツはどうだろう。また別のアイツは? そういえばアイツも……。

バラバラになった私の「世界」は、どんな「世界」に再生しただろう?

それはちょうど、どの菱形を切り取っても同じ二等辺三角形で構成されている、麻の葉模様のように。

「人間」という語が表す「人の間」は、自分の菱形の「世界」の一部であると同時に、誰かの菱形の一部でもあるのだろう。

私がバラバラにしてしまったあの二等辺三角形が、自分の菱形を形成し直して、また誰かの菱形の一部になって。そうやって彼らの「世界」が再生してくれていれば、私も少しは肩の凝りが軽くなるのだろうか。

こんなふうに、かたちのない虚しい救いを妄想していても、その救いが実在したとしても、もはや誰の菱形とも重なれなくなった私の二等辺三角形では、それを知る手だては無いのだ。

何度くりかえしたか分からない後悔の思考を、私は冷めきってしまったコーヒーと一緒に飲み下した。

きっと明後日くらいには、同じ苦味をまた味わうことになるのだろう。

死んでも学べない

「この台風×x号は地球史上最大規模とも言わ

れており、東京23区の3割が水没すると言わ

れた昨年のスーパー台風と比べても一一」

テレビからは、ニュースキャスターが気象情

報を伝える無機質な音声が聞こえている。

しがない会社員のFは、そんなニュースを聞

き流しながら、公共交通機関の遅延や運休が

ほぼ確定している明日、 どうやって出勤しよ

うか考えていた。

「タクシー……は高いんだよなあ」

台風だからといって出勤しないわけにはいか

ない。なんだかんだ去年のスーパー台風だっ

て普通に生き延びられた。交通は麻塵するし

足元も悪くはなるだろうが、 どうせニュース

の言うような大袈裟なことにはなるまい。

しかし、移動の足をどうしたものか。できる

だけお金はかけたくないが...。

翌日、止むを得ずタクシーと遅れながら動い

ているバスを無理やり乗り継いで出勤したF

は、冠水しつつあった路面にタイヤを取られ

たバスの事故で死亡した。

 

 

「台風xx号は地球史上最大規模とも言われて

おり、東京23区の3割が水没すると言われた

昨年のスーパー台風と比べてもー一」

ニュースキャスターが無機質に伝える気象情

報を見ながら、主婦Nは防災用品の備えを確

認していた。懐中電灯もモバイルバッテリー

も、カセットコンロとガスも準備したし、水

も蓄えた。

「そうだ、物干し竿もしまっておかない

と.…」

不安を胸に忙しなく動いたNは、 その日のタ

方には、どのサイトに乗っているマニュアル

と比べても不足のない備えを終えた。

「あ、Mちゃん、明日はお友達と遊んじゃダ

メよ。お天気が悪くて危ないから」

娘のMにも注意を促した。幼稚園も明日は休

みにするのだそうだ。

「あとは家でおとなしく過ごすのが一番ね」

ひとまず落ち着いて床についた翌朝、 外は激

しい暴風雨で、耳を塞ぎたくなるような轟音

が窓を震わせていた。テープで補強してある

ので、万が一割れても大事故にはならないは

ずだ。

その日の夕方、昼食後の転寝から覚めたM

は、昼寝をしている娘を起こしに子ども部屋

に向かった。

そこでMの目に飛び込んできたのは、 子ども

部屋を出てすぐのところにある小窓に突き刺

さった物干し竿だった。

どこかの家から飛んできたであるろうそれは、

小窓を割り貫いていた。テープ補強のおかげ

か破片はそれほど散っていないが、 もし娘が

ここを通るタイミングで、これが飛んできて

いたら.…。

 

 

先日の台風で息子のFが死んだようだ。

まだ実感が湧かない。一通りの始末を終えた

私は、息子の借りているアパートの部屋を片

付けにやって来た。

片付けている間に少しずつ実感が湧いてきた

一方で、どこか妙に冷静な私が疑問に思っ

た。

「あの子は、物干し竿を持っていなかったの

だろうか?」

最悪の目覚め

最悪の目覚めだった。

昨晩は美味しい夕飯を食べて、新しく買った身体にいいらしい枕で快適な眠りについたというのに、悪夢を見たのだ。

夢の中で死んだのだ。

 

その夢の中で、私は気付くと、どこかで見たことがあるようで、おそらく実在しないことが何となく察せるような、不思議な高所で数十メートル下方を眺めていた。

――ここから落下したら助からないんだろうな。

ふと、そんなことを考えたような気がするけれど、夢の中での思考は、起きてからはイマイチ上手く思い出せないものだ。

そんな思考を反映したのか、次の瞬間、私は頭から落下した。

視界に映る地面がどんどん迫ってきて、いよいよ顔が地面に衝突するというタイミングで、目が覚めた。

 

少し前に何かの本で読んだ話だが、夢の中での自分の死を迎えると、現実の肉体にも同じような影響を与えることもあるそうだ。

まったく、なんて夢だ。

なんて最悪な目覚めなんだ。

 

寝付いたときにどんな姿勢で横になっていたのか、出来るだけ思い出して近い体勢を取ろうと努めながら、私はもう一度目を閉じた。

もう少しで、死ねていたかもしれないというのに。