小説くずれの山

小説崩れを置いておく場所。思いつきで書いているので、ほんの少しのテーマ箱みたいなものです。よければコメントください。

アインシュタインの給仕

「退屈な人生だ」

就職の日が近づいてきたある日、男は改めて呟いた。平凡よりも更に少しだけ穏やかな学生生活をおくってきた彼は、もう間もなく何の変哲もない会社に就いて、語ることもないような在り来りな人生をおくって、よくあるホールのよくある棚で念仏を聞いて、有象無象の墓石の下で眠るのだろう。

本当に、"特に何も無い"とは自分のためにあるような言葉だ。

男はそんなふうに考えていた。

彼はアルバイトから帰ると、いつも通りスマートフォンを開いた。動画投稿サイトを利用するのが日課なのだ。好きなクリエイターの動画や生配信をぼんやりと眺めて、眠くなったら寝る。それが日常だった。

6.1インチの液晶画面の中では、素人の中から偶然見つけられた若者たち――彼とそう歳も変わらないような才能の芽たちが、持ち込んだ企画を仲間たちと盛り上げていた。コメント欄では視聴者が絶えず感想や評価を発信し、その流れは彼が目で負い切るには少し速すぎるくらいだった。その中には彼の言葉もある。

「見つけられなければ、何も出来ない世の中だ」

インターネットが当たり前に使える時代がやってきて、絵や文章や音楽、そしてその他のエンターテインメントは「誰もが気軽に発信できる」し「誰もが気軽に受信できる」世の中になったと言われている。この言葉に間違いは無いだろう。

だけれど。

「見つけてもらうには、見つけられた実績が要るんだ」

少なくとも彼の場合、彼が長い学生生活の半分の期間に暮らしの傍らで書き連ねていた文章の多くは、インターネット上の無数の言葉の中に飲み込まれ、数え切れる程度の数だけ誰かの視界の片隅に触れてどこかへ消えていった。

結局のところ、何かひとつでも「見つけられ」て、「目をつけられる」ことを経験しなければ、なかなか評価は得られないし、活動の第一段階である「見てもらう」ことすら叶わないで消えていくのだ。このインターネットの世界には、そうやって誰の目にも触れなかった傑作が、文字通り腐るほどあるのだ。「――何を言ったかより、誰が言ったかだ」そんな残酷で確実な台詞を、なにかの漫画で読んだ気がする。

時代が移ろっても、超えなければならないハードルの高さの合計はきっと変わっていないのだ。「発信と受信」が簡単な時代では「勝たなければならない同志の数」か増える。逆にそれが難しければ「同志」は減る。両者は反比例の仲なのだ。

だからこそ、この液晶画面越しに幾千幾万もの人々に笑顔を提供できるこの人たちは、選ばれし者なのだろう。

「そういえば、昔はこの世界に憧れたこともあったっけな」

誰もが一度は、スポーツ選手や、役者や、創作活動家に憧れる。その多くは無邪気に「将来はあれになりたいんだ!」と語っては後年に「そんな不安定で大変な業種はやめなさい」と誰かに言われ、その通りにしてしまう。彼も昔は、「小説家になりたい!」と語っていた時期があったものだ。

「この人たちは……きっとそれに折れない強い人だったんだな」

番組が終わり、「おつかれさま!」で賑わうコメント欄を見送った彼は、画面をSNSに変える。これも日課のひとつみたいなものだ。

特に何をつぶやくわけでもなく、タイムラインをスクロールし、目に止まった呟きを斜め読みする。

「……違う」

彼の目にとある呟きが映った。読んだ彼は思わずそう独り言ちた。

「違った……そうじゃない」

震え声で、彼は続ける。

「あの人たちは、ただ強い人だったわけじゃないんだ……むしろ、弱いのは俺たちのほうじゃないか……」

独り言のクセなんて彼には無い。そんな彼が、誰もいないアパートの一室で長々とそんなふうに振る舞うくらいの衝撃だったのだ。

「そうだ……俺が小説家を諦めたのは……生きてきた中で出会ってきたあの大多数の大人たちが『やめろ』と言ったからだ!『無理だ』と断定したからだ!でも……彼らに根拠なんてなかったんだ……」

夢を追うことを、最初からやめたくてやめる人間なんてそう居やしない。もちろん、どこかで現実を知って逃げ出したくなることはあっても、それすら外的な恐怖への対応であって、自発的にやめたがった訳ではないのだ。

「違う……人生が退屈なんじゃない!俺の築いてきた『常識』が退屈なんだ!」

気付けば彼は、動画クリエイター事務所のエントリーフォームのリンクをタップしていた。

自分の文章を、あの人たちと同じ世界で、今度こそ輝かせてみよう。

彼は明朝、この夜の選択に対して純粋に夢想を重ねる楽観的で理想家な自分と、くどくどとバカにした説教を繰り返す悲観的で現実家な自分との矛盾に悩まされることになる。

――きっと後者こそが、この四半世紀に自分が喰らってきた「大人の常識」なのだ。

言葉は食べ物だ。人が生きていく中で、幾つものそれを大人たちから与えられて、子どもはそれを無邪気に喰らうしかないのだ。そうして体内に蓄えられた言葉たちは、否応なくその者の思考や言動、そして生涯を肉体のように縛り付けるのだ。

彼のエントリーに対する合否が出るまでにはまだ時間がかかるが、彼はその悩みすら幸福に思えるくらいには、刺激と意欲を得ることには成功したようだ。

 

 

 

迷言BOT @meigen_bot

20XX.10.28  23:26

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」――アルベルト・アインシュタイン

          返信        RT        いいね         共有