小説くずれの山

小説崩れを置いておく場所。思いつきで書いているので、ほんの少しのテーマ箱みたいなものです。よければコメントください。

桜の樹の下

「僕に限った話じゃないさ」

声にならない言葉で、僕は呟く。

「どんなかたちであれ、最後はだれだってきっとそうなるんだから」

目の前では、イマドキと形容するにふさわしいファッションの少女が、桜の樹を不思議そうな瞳で見上げている。歳は十代後半だろう。若さに充ちた綺麗な目だ。

 


今から70年と少し前の11月、この土地には炎の雨が降った。

僕は恋人を連れて、触れずとも熱を感じさせて降りそそぐ「雨水」を避けながら走った。

たしか、あの階段を登ったところにある神社に、防空壕があったはずだ。そこに逃げ込もう。

そう、思っていた。

タイミングが悪く準備に時間をとられてしまい、僕たちの避難は大幅に遅れていた。周りには人は見当たらない。もう避難したのだろうか。そうであって欲しい。

まとわりつく汗と熱気が焦燥を際立たせる。焦ったときのクセで、僕は目元の黒子を掻いていた。

体力のない彼女の手を引いて登る階段は、いつ出兵になってもいいように普段から鍛えていた僕でも、なかなか辛いものがあった。

やっとのことで階段を登りきるや否や、僕たちはその場で膝をついた。それはなにも階段で疲れたからではなかった。

防空壕が、壊れていた。

「雨水」の一滴が、壕のすぐそばに直撃したらしい。入口がすっかり瓦礫で埋もれた防空壕の傍らで、枝が半分ほど焼け焦げた桜の樹だけが辛うじて生命を感じさせていた。

壕の中の人たちは無事だろうか。無事だとして、助けが来るまでに、密閉された暗い空間で、その中の何人が生きて帰れるだろうか。

「とにかく……どこかに身を隠さないと」

焦りから早口になる僕の言葉に応じて、彼女は神社の社の下に潜る。木造建築がどこまであの「雨水」に耐えられるかはわからないけれど、ほかに避難できそうな場所は思いつかなかった。

「瓦礫をどかせないか、試してくる」

僕はそう言って、袖を掴んで首を振る彼女を社の下に残し、崩れた防空壕の瓦礫をどかし始めた。あの時の彼女の、炎を反射しながらしっとりと湿った瞳を忘れることはない。

危険は百も承知だった。それでもやはり、木造建築で火の雨を防ぐのは心許ないし、何より防空壕の中の人たちが気がかりだった。非常時の焦りでじっとしていられなかったのも確かだ。

瓦礫をどかし始めてまもなくだった。ちょうど僕が瓦礫に手を伸ばした所に、「雨水」が降った。

 


70年の時が経って、僕はまだ、かつてあの防空壕だった場所に縛られたままだ。

「帰るかね」

90にはなっていそうな老婆が、しわがれた声と曖昧な滑舌で、歪な枝の生え方をした桜の樹を眺め飽きた少女に声をかけた。歳のわりに、まだずいぶん元気そうだ。

「おばあちゃん、よくここに来たがるけど、どうして?」

少女は老婆に問いかける。

「お前があと少し大きくなったら、話してやろう」

「私もう18よ? もう背なんか伸びないわよ」

不満そうな少女の反応を余所に、老婆は適当にはぐらかす。きっと彼女は、それを語る前にこの世を去るだろう。

少女の顔には、老婆の若い頃の、社の下で奇跡的に生き残った彼女の面影が、たしかに残っている。しっとりと潤った目には明るい気持ちがよく現れている。こうやって見ると、目元の黒子も案外かわいらしくて、まだまだ将来が楽しみな子だ。

祖母と歩く少女はとても楽しそうで、そこにはたしかに幸せが見える。

あのタイミングの悪さのせいで僕は不幸に遭った。けれど、その不幸は、違うかたちでいつか必ず訪れたものでもある。そして、もしかしたらあのタイミングの悪さがなければ、この少女の幸せはもう少しズレたものになっていたのかもしれない。

 


桜の樹の下には死体が埋まっている、という言葉があるらしい。

だれだってきっとそうだ。桜の花を愛でるとき、ひとは足元の花弁を踏みつけている。幸せに触れるとき、その背景には無数の不幸が潜んでいる。でもそれは、決して間違ったことではないはずだ。

過去を受け入れて、同じ不幸をできるだけ繰り返さずに、未来を愛でられるから幸せなんだ。

僕はもう少しだけ、桜の樹の下で、あの少女と最愛の老婆のささやかな幸せを見届け続けよう。