小説くずれの山

小説崩れを置いておく場所。思いつきで書いているので、ほんの少しのテーマ箱みたいなものです。よければコメントください。

確実な過去をなぞる

少し、昔話をしよう。

 


……?

目を覚ますと、重要な記憶ばかりがひどく曖昧になっていた。自分の名前、現在地、今の時間。

辺りは暗い。暗闇の奥に一筋だけ光が差し込んでいる。扉の隙間だろうか。ここは何かの部屋の中のようだが、心当たりは無い。勿論、自分の名前すら覚えていないのだから、自室がどのような間取りだったかも覚えていないけれど、それでも何となく「居慣れた自室」ではないことは感覚で分かった。

いやに蒸し暑くて、シャツが汗でベタつく感覚がひどく不愉快だった。

漠然と、自分がだいたい10代後半で、男性であることは覚えていた。

「ここは……どこだ? いやそれよりも、僕は……誰だっけ……?」

フィクションの世界でしか聞いたことがないような、頼りない在り来りなセリフが思わず口をついて出る。

暗闇に少し目が慣れてきて、もう一度辺りを見回してみた。やはり見覚えのない――少なくとも、今覚えていることの中に答えは無い部屋だった。

程なくして、足元も辛うじて見えるようになり、僕は先程見えた扉と思しき隙間に近づく。手探りでドアノブを見つけ、捻ってみる。鍵は掛かっていないらしく、ちょっとの力で扉は開いた。

扉を開けると目の前に広がっているのは平凡な丘の風景で、足元の青々とした芝生と、やかましい蝉の声と、降り注ぐきつい日差しが、どうやら今が夏であることを物語っていた。どうやら今居た部屋は窓がないプレハブ小屋だったらしい。

丘を下った先の炎天下に、やっぱり在り来りで、なんのノスタルジーも催さない街並みが見えた。

唐突に眼球を刺激した日光に眉をひそめながら、ジーンズのポケットを漁ってみる。特に意図せずしてとった行動だった。今にして思えば、いつものクセでスマートフォンを取り出そうとしていたのかもしれない。

ポケットの中には財布も鍵も何も入っていなかった。当然、スマートフォンや身分証明書の類も見つからない。いよいよもって、自分が何者なのか、ここがどこなのかを判断する材料が無い。

嫌な汗を手の甲で払いつつ、自分の身に何が起こったのかを推理する。

真っ先に思いついた可能性は「誘拐や拉致といった犯罪に巻き込まれた」だったが、だとしたら鍵も掛けずに放置したりはしないだろう。直ぐに否定できた。

次に思いついたのは、「僕が自分の意思であの部屋にやってきて、なんらかの事故――暑さや酸欠で倒れてしまい、一時的に記憶が上手く掘り起こせていない」というものだった。しかし、これもおかしい。熱中症や酸欠が原因なら、汗まみれとはいえ今まさに身体が動いているのは不自然だし、自分の意思でやって来たのだとしたら、荷物どころか財布も何も持っていないのはあまりにも奇妙だ。

だが、どんな理由があるにせよ、現状で何も思い出せないのは事実で、それは紛れもなく健忘症の類であろう。

ひとまず風景の先に見えるあの街に出て、公共施設に頼ることにするのが最善策といっていいだろう。

僕は街へ向かって歩み始めた。

汗でベタつく顔を洗いたかったし、流石に喉も乾いていたので、道中にあった水飲み場に立ち寄った。火照った身体に冷たい水が心地よい。そこまで誰ともすれ違わなかったが、丘を少し登った所なので誰も来ていないのだろうと思い、特に不審には感じなかった。もしかしたら平日の昼間なのかもしれない。果たして僕が学生だったら、無断欠席になってしまうだろう。そんな他愛もないことを考えつつ、丘を下った。

丘を下りきる頃にはまた汗が吹き出していて、どこかで冷たい炭酸水でも買って飲みたいくらいだった。特に深く考えたわけでもなく、なんとなくで「炭酸飲料」ではなく「炭酸水」を欲したあたり、もともと炭酸水が好きだったのだろう。思い出すこととはまた違うが

、ひとつだけ自分のことが分かって安心したのは確かだった。無事に街並みにたどり着いて、ちょうどコンビニエンスストアが目に止まった。残念ながら財布は持ち合わせていないから買うことは出来ないが、少し涼んでいこう。

 


……何かがおかしい。

涼みに立ち寄ったコンビニエンスストアで、はしたないのは承知で冷房に便乗していると、店員とすれ違った。学生のアルバイトであろうパーマの効いた茶髪の彼は、すれ違いざまに持っていた商品箱を私の腕にぶつけ、妙な表情でこちらを振り返った後、何事も無かったかのように通り過ぎていった。目も合わせない。

故意ではないのだろうが、マニュアルが行き届いていることに定評のあるコンビニバイト店員が、こういう場合にこんなふうに愛想も礼儀もない対応をするのは如何なものだろうか。

何も買わないのに涼むだけ涼んで出ていこうとして、万引きか何かだと間違われるのも嫌だったので、トイレを借りることにした。トイレのドアには「ご利用の際は店員に一言お声かけ頂きますよう、お願い致します。」と貼り紙があったので、レジで何かを数えている店員に向かって「御手洗借りますね」と声をかけた。しかし、店員はウンともスンとも言わない。こちらを見て頷きもしない。再度声をかけてみたが、反応は変わらず無い。

この店舗は店員の教育が特別行き届いていないのだろうか。流石に不愉快に思いつつトイレをさっさと借りて、私はその店舗を後にすることにした。

まるで、"僕のことを認識できていないかのような"対応だった。

一抹の不安が脊髄を撫でた。それに駆り立てられるかのように、街を早足で歩き回った。途中何度も誰かとぶつかった。ぶつかった誰もが、こちらを振り返っては何事もないことを確認して奇妙な表情で通り過ぎてゆく。危うく走っている子どもたちを何度か蹴飛ばしそうになった。子どもたちは何の脅威も驚異も見出さず走り去っていく。涼んだばかりだと言うのに、汗は変わらず吹き出し続けている。なんならさっきまでより不愉快なくらいだ。

どうなっているんだ。

この街の人間は、僕の存在を、声を、認識していない。

 


……理解できない。

認識されていないだけで、存在そのものは確かに「在る」ようだ。僕の視界では鏡にも映っているし、誰かとぶつかったり、先程のように蛇口を捻ったりはできる。ただ、道端の石ころになったように、誰かの感情の対象になったり、意思疎通を図ったりは出来ない。声や身振り手振りを知覚して貰えないのだ。

「ここはどこ、わたしはだれ」どころではない。フィクションの中でしか有り得ないようなことが現在進行形で起こっているのだ。事態を把握すればするほど不快な汗が首筋を湿らせた。空気は暑いのに内蔵がひんやりとする感覚さえ鬱陶しい。

把握はできても理解はできないことというのは得てして在るものだ。しかしその全ては、受験勉強の中で自分の頭では暗記でしか対処出来ない単元のように、人を歯痒い思いで煩わせるものだ。

暑さと混乱で頭も回らなくなってきた。どうせ存在も認識されていないのだ。僕は先程とは別のコンビニを見つけ、ミネラルウォーターを拝借し、少し飲んで残りを頭から被った。緊急回避ということで大目に見てもらおう。そうしてコンビニの前に座り込んでしまった。シャツもジーンズも、台風の中を歩いてきたかのようにびしょ濡れで、とても公共の場に居ていい格好ではなかったが、もはや認識されなのだからどうでもよかった。

少し落ち着いて、髪の先から地面へと滴り落ちるミネラルウォーターをぼんやりと眺めながら、どうしたものかと思索する。

ふと、物は触れるから、例えばペンをどうにかして手に入れれば、文字を書いて誰かと意思疎通を図れるかもしれないと思い至った。

早速、濡れたままコンビニにもう一度入り、棚の中で一番安い筆記具を拝借して、店内で一番質素な貼り紙を選んで事の経緯と「誰か返事をくれ」といった旨を書き込んでみた。

しばらくして店員がその書き込みを見つけると、舌打ち混じりにこんなことをボヤいた。

「誰だよこんなとこにインク染み付けたやつ……ちっ……擦っても消えねえじゃねえか」

どうやら"僕が発信した言葉も認識されない"らしい。か細い望みは容赦なく断ち切られた。

存在が認識できず、スマートフォンも持っていない。だからインターネットや警察を縋ることは出来ないということになる。何らかの方法で文字や言葉を発信しても、それも認識されない。あらゆる意思疎通は遮断されており、ただ「認識されない存在」としてのみ在る。

どうしようも、ないじゃないか。

いよいよもって八方塞がりだ。

最早打つ手を失って、どうすることも出来ずにとぼとぼと歩き始めた。相変わらず袖口から滴っているミネラルウォーターが、アスファルトに惨めなシミを作った。

気付けばもう日は傾いていて、学校帰りの高校生がケタケタ笑いながら道を行くのが見える。それでも彼らに自分は見えていない。

可愛らしい印象を受ける背のまるまった老夫婦が何かを囁き合いながらスーパーマーケットから出てきた。今夜の献立の話だろうか。彼らはお互いと言葉を交わせても、僕と言葉を交わせるものはいない。

当てもなくさまよって、気付けば静かな公園の隅にいた。子どもたちはもう家に帰ったのだろう。置いていかれたサッカーボールだけが風に転がされている。どこかからカタンカタンと電車が線路を走る音が聞こえている。物寂しい空間が広がっていた。

どのくらいさまよっていたのだろう。また喉が渇いていた。目に止まった水飲み場の蛇口を捻った。思えば、あの小屋を抜け出して最初に触れたものもこれも同じ形の蛇口だった。あの時はまだ、こんなに絶望的な未来を予想だにしていなかった。

「こんな……こんなの、どうしろっていうんだよ」

最早誰にも聞こえない僕の声は、こぼれた水なのか落ちた涙なのか分からない液体と共に、排水口に流れていく。きっとこのまま下水と共に、誰の目にも触れずにどこかへ行ってしまうのだろう。

……あの小屋に戻れば、何かわかるだろうか。

どうしようもなくなって、初心に戻るというほど積極的なものではないが、一旦あの場所に戻ってみようかと思い立った。

何か見落とした手掛かりがあるかもしれない。いずれにしても、今ここでできるような手段はもう残っていない。

「行こう」

言い聞かせるようにそう言って立ち上がった。

後ろから声が聞こえた。

「よう。やっと、戻る気になったか?」

 


……どうして。

声のほうへとほとんど無意識に振り向く。

声の主は、ボロいジーンズと季節に似合わない真っ黒なパーカー姿で、フードを目深に被っていた。しかしその言葉は間違いなく僕自身に向けられていた。その場に他に人はいないのだ。

普通だったら、不審な男に声をかけられたら応じる必要は無い。しかし今は普通ではなかった。

"認識されないはずの僕に声をかけてきた者がいる。"

異常に異常が掛け合わさった産物として、歪に平常な出来事が起こっている。

僕が、見えるのか?

「『見えるのか』って?そりゃあ見えるさ。この距離だぜ?見えないほうがおかしいだろう?」

見透かしたように男が答えた。思わず声に出してしまったのだろうか。

「ああ、安心しろよ。声には出てない。俺が勝手に知っていただけだ」

まただ。この男は、考えていることを見透かしている。

「見透かしているっていうのとは少し違うがね。まあ似たようなもんだ。大事なのは結論、結末だ」

三度男が勝手に答えた。誰なんだこの男は。案の定言葉にする前に男は話し始めた。

「俺が誰かなんてどうでもいいだろう?君が知りたいのはそんなことじゃない。自分の状況とその原因だ。そうだろう?」

やっとの思いで僕が答える。

「なんなんですか……なんで全部見透かしているんですか」

「おいおい、『質問に質問で返すな』っていつだったかマンガで読まなかったか?……まあいい、その質問に答えるのであれば、『知っていた』というだけのことさ」

何を言っているのか分からない。なんなんだこの男は。不審は不信を呼ぶ。

「ま、お前が俺のことを不審がろうが信じなかろうが、お前は唯一意思疎通ができる俺と話さざるを得ないんだがな」

次々と思考を見透かして、男はとうとうと話し続ける。

――逃げなければならない!

本能がそう叫んだ気がした。考えてはいけない!この男の声に耳を傾けることは最善策じゃない!早くあの場所へ向かうんだ!と。

「お前さあ、いくらなんでも水盗んだりペン盗って落書きしたりはダメだろう?良くないぜ。メンタル鍛えなきゃな」

偉そうに語り続ける男の言葉は、もう僕には聞こえていなかった。

僕は、あの小屋を目指して駆け出していた。

「それでいい」

男は自嘲気味にそう呟いていた。

公園に取り残された男は、教壇に立つベテランの教授のように大袈裟に、それでいて諭すように、空に向かって独り言ちる。

「お前は、それでいい。どんなに追い込まれていても、悪は悪だ。孤独はお前だけじゃない。あの学生たちも、あの老夫婦も、本質的には孤独だ。独りと独りが合わさっても『ふたり』に応る字は無いんだ。言い訳がましい『緊急回避』も、誰もが目を背ける『孤独の集積』も、お前はこの一晩で知ることが出来た!これでいいんだ!俺の役目は、お前にそれを見せつけることだ!見せつけられたお前が、『次の俺』を生み出す!お前は本能に負けて逃げたんじゃない!受け入れて立ち向かう覚悟を決めたのだ!その覚悟が開く、正しき道を目指すべく駆け出したのだ!そうやって俺は!お前は!この夜を繰り返すのだ!この夜が来る度に悩むのだ!」

男の叫びは空に吸い込まれていく。公園の前を通り過ぎていく人々には、当然のごとく男の声なんて聞こえていない。

 


……もう疲れた。

あたりは既に暗くなっている。知っていた道でも、来た道を覚えていたわけでもないのに、気づけばあの丘を駆け上っていた。昼間に立ち寄ったあのコンビニを通り過ぎたかどうかすら覚えていない。ただ走らなければならないという義務感で、あの小屋を目指していた。

ようやく小屋にたどり着く。目覚めた時に手探りで捻ったものと同じ形のドアノブを、勢いよく捻って扉を叩き開ける。

もはや自然光すらロクに無い時間だ。室内は昼間以上に真っ暗で、手がかりなんて探す余裕は無い。

「もう……勘弁してくれよ」

僕の呟きが暗がりに呑まれていくのと並行して、意識が遠のいていった。

 


次に目を覚ますと、やはりそこは暗い部屋だった。しかし何かが光っていた。デジタル時計の液晶画面だ。02:18を示している。よく見れば今度は窓もあるし、その向こうには細い月が見えた。寝違えたように少し足が痛い。疲労感と汗が首筋にまとわりついている。

自分の名前も、自分が18歳であることも、ここが自宅の自室であることもすべて覚えていた。

何か、長い夢を見ていたような気がした。

 


……15年後。

目が覚めると俺は暗い部屋にいた。窓のない部屋のようだ。扉と思われるところから光が漏れていた。

――ここは……そうだあの時の。

そこで、全部思い出した。

18歳の夏にみたあの長い夢の内容も、これが夢であることも。

よく辺りを見ると、部屋の対角側に20歳にも満たないくらいの少年が寝ていた。見覚えのある冴えない顔だ。思わず笑ってしまう。

この少年をこの夢から覚ます方法を、永くくり返される夜に悩ませる方法を、その悩みの数だけ彼を大人にしていく方法を、俺は知っているのだ。

俺は部屋を出て、少年が部屋を出るのを待った。

少年は部屋を出ると丘を下り、道中で水飲み場に寄り、そしてコンビニに入った。暫くして、びしょ濡れの格好で焦燥の浮かぶ表情をたたえた彼はあの寂しい公園にやってくる。

ーー本当、こんな役回りおれだってやりたくないけれどさ、お前も不快だろうけれど、過去ほど確かなものもないんだ。お前はこれから、夜を繰り返して悩み抜け。それに、俺の汚点は僕が指摘しなきゃいけないんだ。

俺は、十五年前の、確実な過去をなぞる。真っ直ぐと少年の目を見ることは出来なかったが、それでもあの時のあの俺と同じ、嫌味で大袈裟動作をなぞりながら。

「よう。やっと、戻る気になったか?」

まったく。夏は嫌いだ。

公園の真ん中では、サッカーボールが風に転がされていた。もはや聞こえるのは電車の音だけだ。